物事は「起こるべくして起こる」死んだ魚の目した社畜だらけなのも例外なく
ある者は線路にほっぴんジャンプをキメて、ある者はSNSで気に食わない人間にわざわざ貼りついて価値観を押し付ける。
気に入らない車両の前に躍り出て高速道路で追突事故すら誘発する。
幸せな人間なら絶対にやりそうもないし、自分が幸せになるどころか幸せとは程遠いところに導く行動をとるのは一体なぜなのでしょう?
[outline] [su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#f5502b”] [/su_box]自分の幸せを無理やり世間の言う幸せに当てはめている
自分にとっての幸せについてすら「考えられない」人々
みんな何をするにもお伺いありきなんです。
恋愛も結婚も遊びも食事も。
子供の時から死刑囚みたいに「誰かの許可がないとできない」ものとしてとらえながら暮らししてるんですよ。
書類が回ってないだけで何事も「許可制」なんです。
実家という場所では親っていう上司にいちいち申請を出さないと眠ることすら許されませんからね。
親もまた「考える力がなく」周りに流されているだけの人
例えば毎日の食事。
糖質制限してた頃のぼくを例に上げれば減量の効率を上げるため「1食にしよう」という将来の展望を話してみれば即座に反対意見が飛んできました。
ぼくは糖質制限してた頃、減量のために1日2食制を取っていてそれを公言していましたが、それを聞いた親は「普通でない」この体制に酷評してきました。
「こうして元気に働いてブログも書いてる」っていう結果が出ればぼくが語ることもなければ空いてもまた口をつぐんで何も言わなくなりましたけどね。
親も周りの人と同じで常識に万能を感じていることが多いから、常識外であることに対してはナチュラルに知ったかしながら反対をする習性があるんですよ。
貴重な反対意見をたくさん頂いたぼくは、頂いた貴重な意見をすべて右から左にトイレのちり紙と一緒に流した末に糖質制限ダイエットを成功裏に終わらせました。
どうも日本人の多くは反対意見というものを過大評価する傾向があり、価値を大げさに盛る傾向があるようです。
みんな「これは貴重な意見だぞ」と言いながら巷であふれかえっている珍しくもない誰かの意見をストレートかつ考えることなく言い放ち、あたかも高尚な人間になったつもりになりたいみたいですね。
「反対だけする。一切同意も応援もしないけど」という誰得な考え
反対しかしてこない人って幸せとは縁遠いから必要ないよ。
どういうわけかみんなが言ってることを分析してみると応援するより心配して反対してあげる方が価値が高い行動っぽい。
自分の言う反対意見があたかも絶対的な正しさを持っているような口ぶりで反対意見を持ちだし、彼らは絡みついてきます。
聞いてみれば確かに間違いはないけど、かといって絶対に聞かないと損だと思うほど価値があるとは思えないことばかりです。
[speech_bubble type=”fb” subtype=”L1″ icon=”tm.jpg” name=”てーとく”]むしろ耳を貸したことに対して時間を無駄にしたと思うことの方が多かった[/speech_bubble]多くの人が反対意見を述べる時に「幸せになること」と「不幸にならないためにすること」を混同してものを言っています。
ざっくり言えば彼らの頭の中では「発展」がイコールで「停滞」と結ばれている状態なのです。
「発展することは停滞することだ」なんてみんな直接は言いませんが、「変わらないことはいいことだ」とは言いますよね?
停滞することについてみんなは過大にメリットを感じているようで、その様は誇大広告に毒されて詐欺的な情報商材を買う人のようにすら見えることがあります。
有能な人が組織で潰される
無能も有能も能力を持ち腐れにしたまま終わっていくことに幸せなんてあるの?
日本の労働環境はあまりに幸せからかけ離れています。
生活のために働くのではなく、働かされるために生かされているという絵面です。
理不尽にも指定時刻までにタイムカードを押すためだけに満員電車に押し込まれ、理不尽にも上司や取引先から出てくる無茶の嵐に仕事中はもみくちゃにされ、帰りはまた満員電車という理不尽空間に押し込まれる。
さて、この営みはいたって常識的なものですがどこに幸せがあるのでしょう?
飼い殺し要員という押し付けに近い運命
日本で低賃金長時間重労働を受け入れるとはそういうことです。
今、会社っていう小さな社会で権勢をふるってるっぽい中間管理職の8割がこういう無能だったりします。
彼らが年功序列で上がってしまったら、自分の立場を脅かされないために何をするでしょう。
では何故、無能な彼らが引きたてられたのかという疑問が飛んできそうなのでサクッと答えます。
「その上もまた昇進前は無能な人だった」と。
無能な人ほど角に責任という言葉に恐れをなします。
だから部下の暴走という現象を過度に恐れて報連相を人の2倍くらい過剰に求めてきます。(反対意見も人の10倍は言うし、Goサインは死んでも出さない)
そんな環境で有能な人が仮に生き残ったとしたらどうなるでしょうね。
答えはたった一つ。
「大人しく買い殺し要因という運命を受け入れる」です。
組織人として日本でやっていくとは多少の例外はあれども概ねそういうことなのです。
そのほか多数の不幸
枚挙にいとまがないほどにみんな不幸にまみれている。
毒親、いじめ、SNSでの粘着、痴漢、痴漢冤罪、満員電車、レジの行列、行列で現金を取りだすのに手間取る老人、いうこと聞かない子供に怒鳴り散らす親、無礼講とは名ばかりの無駄でしかない酒席、実家で自由のない閉塞的な毎日を過ごす社会人、長時間労働、ギャンブルの負け、不得意科目に待ち受けている補講や追試という時間の浪費、まずい給食(一部自治体のみ)、給食費を滞納するモンスターペアレント、保育園反対を声高に叫ぶ老害、自分をぶ辱したと思いこんで噛みつかずにはいられなくなる豆腐メンタルと足りない脳みそ・・・・・etc
常識に依存しまくって発作的に違う答えを否定するのではなく、自分の頭でしっかり一つ一つの物事について感じたことを大事にして、世間の常識にとらわれない「自分を取り戻す」必要があるでしょう。
もし、幸せになりたいのなら。
おわりに
日本人の多くはこれからも幸せになれないだろう
老害的価値観はシルバーデモクラシーの傾向と共に重んじられて残留し、世の中全体が進歩を見せる見込みは薄いでしょう
また、中央による教育改革は断行が非常に難しく、重い腰を上げるのにかなりの時間をかける必要もありそうです。
といった具合に、政治家の意識改革に頼るようなでは対応が遅すぎます。
何を言われることになってもぼくら自分の意見をもって自分の判断で状況を切り開いていかなくては幸せな人生なんて手に入りません。
労働万能説が有効だった時代とは環境が違い過ぎるのですから。
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