【無間地獄】一般社会のために命を捨てたほうが合理的だと思った日々

【無間地獄】一般社会のために命を捨てたほうが合理的だと思った日々

ぼくの命は「拾った命」。

ぼくの場合はそこまでしないと本音がわからなかった。

読んでくれた人がぼくと同じ目に遭わなくても記事が本音を引きだすキッカケになれば、ぼくはうれしい。

就職しても昇進しても苦行が止まらない一般社会ならば。

「みんなが選ぶ」苦労が終わらない型(フォーム)。その無間地獄は好き好んで選んでるのだろうか?

多くの人は就職するまでに膨大な「受験勉強」という脳内リソースの浪費と教育費という金銭的浪費を積みます。

苦労はそこでは報われず、満員電車時間の使い方の不自由さに拘束される苦痛に苛まれる上に低賃金長時間重労働にあえぐことになります。

昇進したらムダに重い責任なんてものまでのしかかるし、老後は老後で手厚い保証が約束されたものではないと来る。
うん十年もの間つまらなくて苦しいばかりの日々の末に待つものを思うとやってられなくなりません?

そう、一般社会の奴隷を受け入れた未来なんてのは報いのない無間地獄でしかないのですよ。

それを「みんなやってるから」って押し付けられれば世を儚みたくもなります。

 

命を捨てようとしたらガチで失いかけた

ガチじゃなかった。けどその実、本気から遠いように思えて限りなく本気に近かったのかもしれない

実際、4年前のぼくがそうでしたからね。

その日は友人たちとBBQして川遊びをする日で、私も日頃の憂さをすべて晴らすように遊んでました。

いつものように人生に後悔しないため、「その瞬間だけを生きて」いました。

高い岩肌から川へ飛び込みを始める者が数名でてきたので自分の命など紙のように軽いと捉えていた当時のぼくは金槌なのを承知で飛び込みに参加しました。

「あわよくば、長きにわたる苦痛をここで清算できる」なんて考えを頭の隅に置きながら。

てーとく
死んだら死んだでまァイイか。

そんな捨て鉢な気持ちを胸に。

死に方よーい!なシーンへと突入です。

「死にたくない」理屈を超えた強い抵抗

ぼく自身の本音は?

それは川に飛び込んで足が吊りかけた瞬間のことでした。

てーとく
嫌だ!死ぬ?嫌だ?あ、まだ死にたくないんだ、体は必死に生きようとしている、つーか何とかならんのかよ?オイ!?
てーとく
助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない助かりたい死にたくない死にたくない助かりたい

一般社会の常識を信奉する人から見ればみればさぞ無様で滑稽に映る光景でしょう。

「自殺も受け入れる」とか思ってた人間が手のひら返したように命乞いをしているのですから。

ただ、生き恥を晒した分の収穫はありました。

命の大切さとかそんな綺麗な言葉ではなく、みっともなくても銭ゲバになってでもどうにかしぶとくいきるにはどうすればいいだろう?って考えるようになりました。

見方によっては、スマートな自殺に失敗して挫折したというだけで生きるしか選択肢が見えなくなっただけなのかもしれませんが。

女性読者
生き恥については現在進行形で公開なぅだけどねw

それでも、向いてないことなんていくら頑張っても伸びしろ自体が小さいですし、伸ばす理由も寂しすぎて伸ばす気になれるものでもないですからね♪

こうして、ぼくは「社畜以外になってはいけない」という教義(ドグマ)からは解放されました。

一般社会の教義に従い、義理人情に準ずるやり方が肌に合わないのだと。
教義のためにいつでも誰でもできるはずの「自殺」すらできないのだとハッキリ自覚できたから。

 

一般社会の教義(ドグマ)は人を縛ることはあっても救うことはない

そんなものを受け入れてそれを使って人を断罪するなんて狂気の沙汰だ

元から気が触れているぼくが言うのも難ですが、そんな辛いばかりの協議を他人に押し付けたりそれを使って他人を断罪することにどんな意味があるのでしょう。

それが「まっとうな」日本人のいきる唯一無二の道なのかもしれません。

だからといって、そこを歩かないと決めただけでボロクソに責め立てなくてはいけない理由なんてどこにあるのでしょう。

まして他人が選んだ道を気にすることができるほど余裕のある道を歩くわけでもないのに。

そいつが自殺に追い込まれたり鬱になったところで世の中大して変わりません。

与えられた課題の進捗が進むわけでもありません。

ただ何の意味も利益もなく相手がいためつけられ、痛めつけた側も自身もその場限りの満足感が得られる程度の恩恵しかもらえません。

 

おわりに

オーナーは自分だ。終わらせるのも自分だ。

死を選ぶのもまた一つの道でしょう。
そうするだけの意味も知ってるし、そんなぼくがむやみに死ぬことまでをはく奪する権限はありません。

ですが、本音というものをもっと大事にしてもいいのではないか、とも思うのです。

本能が叫んでいることは、カラダの声でもあります。

恋人や友、腹心に裏切られようと、どうしようもなく裏切ることができない「自分自身」を見失ってないがしろにしてないでしょうか。

社畜的価値観に染まるとつい忘れがちな「自分」という最後の一兵まで身方になってくれる存在。
その声をたまにくらいはマジメに聞いてやってもいいのではないでしょうか。

少なくとも、自分を自殺に追いやる極卒のような一般社会の教義(ドグマ)と違って自身を生かそうとするあたりそこそこアテになる相棒だと思いますよ?

すぽんさーどりんく


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