日本の学校はサラリーマン工場でしかないよね、という話

日本の学校はサラリーマン工場でしかないよね、という話

型にはめる?馬鹿の一つ覚えみたいに?それはもはや教育ではない!

バリピでもなく喪男でもなく、会いたくて震えるでもなくコミュ障でもないリア充オタク、重オタクブロガーのとも提督です(・ω・)ノ

夏の自由研究、みなさんは何をされましたか?私は「スーパーで買ってきたメロンに入ってる種からメロンを作ろうぜ!!」という内容で観察日記をつけて半月ほどで枯らしてしまい、夏休み半ばにして総括を書いて終わりという楽をさせていただいた記憶があります(^_^;)

今回紹介するのはもっとブッ飛んだ内容。そして、学校のトンデモ対応がニュースになったことについて書いていきます。。

サラリーマン製造工場としての実態「理系分野でなければ認めない」

大河ドラマ顔負けの作品を作っても・・・?

学校はまさにサラリーマン製造工場というのが本分のようです。

夏休みの自由研究として提出された「信州真田家」に関する研究資料ですが、受け取った教員は「理系分野でなければ研究として認めない。」という非常に狭量な審判を下して学校側は研究自体を審査対象外=未提出という扱いとして処理したのだとか。

好きなことを否定された生徒は「もう二度と研究はしたくない」とひどく落ち込んだといいます。

今回はTwitterでNHKのことを紹介した人がいたので生徒の研究が無駄になってしまうということだけは避けられたようです。

資料も、参考文献も記され、内容としても非常に工夫されており読んで楽しくなるような非常に完成度の高いものだったとか。

いち歴史オタクとしては是非とも読んでみたいものです。

騒動後の生徒の様子

一応は、才能が摘み取られることなく、彼女は今でも城めぐりなどを通して研究を積極的にされているとか。 歴史オタクとしてホっとしました。

 

公僕・下僕としての正しさが優先され過ぎる「サラリーマン工場」

あなたがた教員は本当に大学を卒業され教育課程をとられたのか!?

てーとく
問いつめたい・・・小一時間問いつめたい・・・!
「いくら完成度が高くとも理系分野以外の研究を研究と認めない」という処理の仕方はあまりに乱暴であり、横暴の極みです。

※ただし理系分野に限るというかっこのついた言い回しも裏を返せば「みんなと同じようにひまわりの観察記録でもつけてりゃ良かったんだよ!!」ってことを言っているわけです。

研究の質なんてそっちのけで「みんなと同じ」であることを何よりも求めるわけです。

もはや教員はロボットの様に作業をこなすことばかりにとらわれ、そのためであれば生徒の成長も学力向上も見る必要性すら感じてはいないのです。

組織の歯車として自分が機能し、自分の生徒もまた「同様に機能するような均質性の保たれた部品としてできているか」しか見ていません。

まるで、高度成長期に大量生産された工業製品のように。

近現代の日本の公教育というのはあくまで、どこまでも1900年ごろに起こった産業革命の時から何ら大きく成長も変化も進歩もしてはいないんです。

 

東大卒とはあくまでサラリーマンという製品の品質等級でしかない。

高学歴ももはや使いつぶしの利く使い捨ての駒になる時代

ここで電通社員の自殺の話に移っていくわけですが、クソ上司に乱雑な扱いを受け、消耗しきった末に非業の過労死を遂げた女性も東大卒という「国内最高峰の最高学府」をパスしてきた「才媛」のはずなんです。

ですが、本当の「才媛」とはそのような扱いを受ける前提で存在するんでしょうか?

そんな「才媛」をコルホーズよろしくな体育会系上等な衰退ブラック企業社畜や携帯電話製造工場のライン工員と大して変わらない「お役所仕事」のようなテンプレ作業をやる装置に仕立てるということがまかり通るものでしょうか?

「安定の公務員」にホイホイとついてきて採用を待つ人間の分母を減らすためだけに。

ぼくはこれらのニュースを見てそんな疑問を強く持ちましたね。

学問所としての大学というのは本来、一流の研究者を育てるべく「才能を伸ばす」ための場所です。

現代日本の社畜(サラリーマン)として使いつぶすのであれば、尋常小学校卒で十分です。

学歴社会とは社会にとってもはや害悪です。

貧困を招き停滞を招き、社会そのものに思考停止を強いるのです。

近い未来、大学というものも今のままでは産業時代の価値観に根差した大企業至上主義社会の凋落とともに姿を消すことになるでしょう。

 

情報社会の成熟期にまだ工場時代の価値観を?

それを人は時代錯誤という。

生産性の意味も、生産すべきとされてきたものも、価値を持つ対象すら、産業時代のそれとはまったく違うのにまだ産業時代と変わらずに「上に迎合」することばかりにこだわるのでしょう。

なぜ、一つの価値観に染まって自分を見失うのでしょう?

なぜ、命を捨てるまで自分を否定し、追い込むのでしょう?

なぜこんなにも人々は迷走するのでしょう?

時代の実情と常識といわれているものがてんでかみ合ってないからです。

 

おわりに

真実は1つだけ?違うな、まちがっているよ?

才能を伸ばすのが本来の学校の姿ですが、日本の教育は教壇に先生が立って教科書の内容をすらすらと板書しながら読み上げ、生徒はひたすらそれを「受ける」スタイルです。

一方、欧米では先生がお題を出し、ディベートやディスカッションを行い、闊達に行われる議論の中で生徒独自の考え方を育てると聞きます。

「真実はいつも一つ」

というスタイルで「教育」という大義名分を掲げて一つの価値観を押し付けることの是非、そしてそれが小学校から大学まですべて統一規格のように行われているということの是非についてついつい思いを巡らせてしまいます。

こんなことがあると、「公教育システムに頼ることは間違いなんだ」と思わざるを得ないですね。

工業製品の生産工場のラインにしか見えない教育システムに、工場時代が終わった今、何の意味があるでしょう?

すぽんさーどりんく


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