型にはめる?馬鹿の一つ覚えみたいに?それはもはや教育ではない!闇の量産工場だ!
夏の自由研究と言えばみなさんは何をされましたか?
プチトマトの栽培やアサガオの観察など、ぼくを含めた多くの人が通った無難なものばかりだと少し物寂しく、印象に残らないものかもしれませんね。
ぼくだと「スーパーで買ってきたメロンに入ってる種からメロンを作ろうぜ!!」という内容で観察日記をつけていたことがありました。
半月ほどで枯らしてしまい、夏休み半ばにして総括を書いて終わりという楽をさせていただいた記憶があります。
今回紹介するのはもっとブッ飛んだ内容で、しかも学校のトンデモ対応がニュースになったことについて書いていきます。
[outline] [su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#f5502b”] [/su_box]サラリーマン製造工場としての実態「理系分野でなければ認めない」
大河ドラマの時代考証スタッフが括目するレベルの出来映えの研究資料と非情な審判
やはり、学校の本懐とは教育機関として機能することではなく「サラリーマン製造工場」であることのようです。
提出されたのは夏休みの自由研究として提出された「信州真田家」に関する研究資料。
その出来は時代劇の交渉スタッフも舌を巻くレベルのもので、「資料も、参考文献も丁寧に記され、内容としても非常に工夫されており読んで楽しくなるような非常に完成度の高いもの」だったとか。
いち歴史オタクとしては是非とも読んでみたいものです。
ですが、受け取った教員は「理系分野でなければ研究として認めない。」という非常に狭量な審判を下して学校側は研究自体を審査対象外=未提出という扱いとして処理したのだとか。
好きなことを否定された生徒は「もう二度と研究はしたくない」とひどく落ち込んだといいます。
もっともこの件はTwitterでこのことを紹介した人がいたので生徒の研究が無駄になってしまうということだけは避けられたようです。
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″]夏休みの自由研究の評価システムが「常識の刷りこみと盲従>能力強化」であることが公教育の目的であり、本質であることを暴露した一例といえる
才能は結果的に守られ、今もその生徒は城巡りなどを楽しみ、歴史に関する研究を続けている模様。
[/su_box]公僕・下僕としての正しさが優先され過ぎる「サラリーマン工場」
あなたがた教員は本当に大学を卒業され教育課程をとられたのか!?
[speech_bubble type=”fb” subtype=”L1″ icon=”tm.jpg” name=”てーとく”]問いつめたい・・・小一時間問いつめたい・・・![/speech_bubble]「いくら完成度が高くとも理系分野以外の研究を研究と認めない」という処理の仕方はあまりに乱暴であり、横暴の極みです。
ただし理系分野に限るという言い回しって、裏を返せば「みんなと同じようにひまわりの観察記録でもつけてりゃ良かったんだよ!!」ってことを言っているわけですからね。
研究の質なんてそっちのけで「みんなと同じ」であることを何よりも求めることからも能力の育成は軽視されていることがわかります。
教員もロボットの様に作業をこなすことばかり求められ、その役割ににとらわれているとも言えますね。
規則を順守するためなら生徒の学力向上の芽すら何のためらいもなく、思慮することすらなく摘むこの行為が動かぬ証拠です。
組織の歯車として教師自身が機能し、自分の生徒もまた「同様に機能するような均質性の保たれた部品としてできているか」という点しか見ていません。
まるで、高度成長期に大量生産された工業製品のように。
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 近現代の日本の公教育は1900年ごろに起こった産業革命の時から何ら大きく成長も変化も進歩もしてはいないし、戦時中以上に集団主義への埋没を強化している。[/su_box]
東大卒とはあくまでサラリーマンという製品の品質等級でしかない。
高学歴ももはや使いつぶしの利く使い捨ての駒になる時代
電通の高橋まつりさんを始め、クソ上司に乱雑な扱いを受けて消耗しきった末に非業の過労死を遂げる東大出身の新卒労働者は珍しい存在ではなくなりました。
「国内最高峰の最高学府」をパスしてきた人間がそのような扱いを受ける前提で存在している、とすればこれはちょっとした異常事態ですよ。
同時に「東大卒業者とは世間が言うほど特別なブランドなのか?」という疑問も浮かびます。
東大卒業者が特別なら、彼らをコルホーズよろしくな体育会系上等な衰退ブラック企業社畜や携帯電話製造工場のライン工員と大して変わらない「お役所仕事」のようなテンプレ作業をやる装置に仕立てるとは人材の浪費そのものだとは思いませんか?
ぼくは、この現象から次のような考えを持つに至りました。
「学歴=役所や大企業の採用活動を円滑化する為の足切り基準でしかない」のだと。
大企業やお役所は毎年、新卒採用をするわけですが、なまじ知名度が高いだけあって応募者が殺到します。
求人市場を俯瞰すると大企業へ行く人間の数が異常なほど膨れ上がっていることはいろは坂の猿でもわかりますからね。
全体が売り手市場で多くの企業が人手不足で廃業を余儀なくされている一方で大企業に絞ると買い手市場(例:パナソニックは50倍・トヨタは56倍)という状況なのですから。
大学本来の機能とは?
大学というのは本来、一流の研究者を育てるべく「才能を伸ばす」ことと「新しい発見を探索する」ことにウエイトを置いた研究機関であり、学問所です。
現代日本の社畜(サラリーマン)として使いつぶすのであれば、尋常小学校卒で十分。
学歴社会とは社会にとってもはや害悪と言っても決して言い過ぎではないでしょう。
貧困と停滞を招き、社会そのものに思考停止を強いているのですから。
近い未来、大学も今のままでは産業時代だった20世紀の価値観に根差した労働万能説とともに姿を消すことになるでしょう。
[su_box title=”まとめ(21世紀の人生設計の常識)” style=”soft” box_color=”#000080″] サラリーマンになるために戦う=レッドオーシャンに縛られる[/su_box]
情報社会の成熟期(21世紀)にまだ工場時代(20世紀)の価値観を?
それを人は時代錯誤という。
生産性の意味も、生産すべきとされてきたものも、価値を持つ対象すら、産業時代のそれとはまったく違うのにまだ産業時代の20世紀と変わり映えせず「上に迎合」することばかり重視させられなくてはいけないのでしょう。
なぜ、一つの価値観に染まって自分を見失うことを強いられるのでしょう?
なぜ、命を捨てるまで自分を否定し、追い込むのでしょう?
なぜこんなにも人々は迷走するのでしょう?
時代の実情と常識といわれているものが噛み合ってないからです。
古い時代が必要以上に執拗に生贄を求め、血に飢えているとすら言えそうですね。
ぼくらが戦うべきなのは大企業の有効求人倍率でも東大や京大の合格倍率でもありません。
敵は本能寺に非ず、20世紀や産業時代の古い価値観を強いる圧力にあり!なのです。
おわりに
真実は1つだけ?違うな、まちがっているよ?
才能を伸ばすのが本来の学校の姿ですが、日本の教育は教壇に先生が立って教科書の内容をすらすらと板書しながら読み上げ、生徒はひたすらそれを「受ける」スタイルです。
一方、欧米では先生がお題を出し、ディベートやディスカッションを行い、闊達に行われる議論の中で生徒独自の考え方を育てると聞きます。
「真実はいつも一つ」
という姿勢で一つの価値観を押し付けることの是非、そしてそれが小学校から大学まですべて統一規格のように行われているということの是非についてついつい思いを巡らせてしまいます。
こんなことがあると知ってしまうと、「公教育システムに頼ることは間違いなんだ」と思わざるを得ないですね。
工業製品の生産工場のラインにしか見えない公教育のシステムに、工場時代が終わった今、既存の公教育へお金を使うことに何の意味があるというのでしょう?
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