人生はワンチャンス
セカンドチャンスをリアルで経験したからこそ、言えることがコレ↑
例外なんて死ぬスレスレで引き寄せなければぜーーーーーったいに引き寄せられないし、それ以外の方法で引き寄せたものはすぐ絶対にダメになるものだと、ここに断言できるだけの論拠を紹介していきます!
[outline] [su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#f5502b”] [/su_box]【セカンドチャンスへの万能感に溺れた過去】命の本当の重さと尊さを知らなかった時のぼく
https://t-fleet.jp/2016/10/11/no-suiside-yes-live-in-water/
セカンドチャンスにすがるばかりの本物の馬鹿だった過去の自分
今の彼女に出会う前、川で溺れて死にかけたところを当時、遊んでいた元仲間の子供さんに救われるその瞬間まで。
そんな生きかたを23年も続けたのですから、本当にもったいないことをしていたのだと、いつ思い出しても痛感します。
命というワンチャンスすら何をトチ狂ったか当時のぼくは捨てようとしました。
セカンドチャンスばかりにすがってきたからこんなことができたのだとガチで死にかけて痛感した経験です。
助かったからこそ、こんなことを書ける。
本当に感謝ですよ。
セカンドチャンス依存は人間的魅力を下げる
今になって思う。
鬼メして、口やかましく注文をつけ、セカンドチャンスにすがって、そのたびに煙たがられて別れを告げられてましたからね。
ぼくは過去に相手にせっかく評価されたぼくというブランドを地に落とす以外に意味を持たない言動ばかりを積んでいたのです。
マジメ人間として頑張ったつもりではあったのですが、結果が伴わない努力は方向性も含め、改める必要があるのだと身をもって学びました。
文句のつけようもないくらい黒歴史らしい黒歴史です。
罪悪感や恐怖で恋人を支配しようとする横着な心が呼ばなくていいミスを招き、謝ればチャラにできるという慢心があったから何回もセカンドチャンスにすがる形で同じ過ちを繰り替えせたのです。
今、そういう悪癖を修正し、今カノと3年付きあえているという結果を以てそれを証明することと相成りました。
長くつきあったり信頼関係を築く秘訣は口やかましく言うことや束縛ではないのです。
言い過ぎて喧嘩することを繰り返し、互いがセカンドチャンスに依存しなくてはいけない理由などどこにもないのです。
「多くの人にとっての幸せ」を求めるだけの人生になってね?
結婚がすべて?大企業万能説?それって本当に求めてるもの?
ぼくら日本人の大部分は学校という名の工場で教育という名の製造工程を経た労働用の設備として社会に送り出される存在です。
命は日々、労働万能説の旗の下で公教育システムを組んだ人々の思惑のために消費されています。
いい学校に入っていい会社やお役所に世話になり、とにかく真面目に頑張れば人生は順風満帆だからそのために必死になれと世間や親、友達に耳にタコができるほど聞かされながらぼくらは10代や20代を過ごし、時間を消費していきます。
そこに納得があるかないかを考える間も与えられないままに。
「お前はそれでいいのか?」というセリフすら、社畜社会にヒトを釘付けにするためだけに使われるこの世界で。
そのまま流されるだけでいるからぼくらはセカンドチャンスにばかり依存して、考えなしに日々を浪費しながら都合よく使われるだけの存在になるのではないでしょうか?
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 今やっていることに納得はありますか?[/su_box]
誰かを型にはめるのではなく、自分の通る道を常識にするために生きる
他人を既存の型に入れることは幸せになるために必要ない無駄だ
他人を歪めてまで均一化させることこそが社会のためになるいいことなのだとぼくらは教わって生きてきたように思いませんか?
物体に力を加えれば当然抵抗が働きますよね?
加えた力が強ければ強いほど抵抗もまた比例して大きくなります。
常識を守れ!
恥知らず!
アバズレ!
種馬!
誰の思惑かは知りませんが、そんな「余計な一言」を大量生産しながら、周りの人から一文にもならないのに考える力も個性も奪い、ぼくら自身もまた限りなく抜け殻に近い存在になるように、どういうわけかぼくらは動かされているのです。
ぼくたちは、誰かを常識なんて型にはめることにこだわるのではなく、もっと自分の意志を持って目の前に立ちはだかる疑問についてもっと頭を使い、もっと実のある改善を重ねる方が身のある人生を作れるのではないでしょうか。
誰かが誰かのために作った常識に盲従するのではなく、欠点を感じたらその部分を改善し、オリジナルの人生づくりに向くよう新しい道を作っていく。
頭を使って生きるようにすればぼくらはもっと合理的かつ幸せで主体性のある人生が作れるのではないでしょうか?
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 社畜は人類最大の武器である頭脳を使わず、体ばかりを動かしているんじゃね?[/su_box]
生きていても心でいても惨めな人生とは?
己の信念もなく誰かの都合に考えなしに迎合するだけの人生
自殺者が増える理由とシリアルキラーが発生する理由は本質的な部分で同じです。
自分の考えを全否定され続け、自分の存在意義がピロシキの具みたいになるような経験を京急本線の横浜以南に存在する山岳トンネルと中低速コーナー以上の数経験するのだから無理もありません。
教育という加工ってのはみんなが同じようにやりすごせるものではありません
真正面から加工を受ければ誰だって信念も誇りも失い、ただ生きることだけが目的になり誇りも尊厳も失うのだからそれが惨めでないわけがありません。
みんなに「いい学校・いい働き口」と叫ばせ、口で言わないまでも身体をそのように動かさせる大企業万能説も「生きることだけが目的」だからこそ存在できるものですからね。
誇りと尊厳と自立なくして信念や思想はありえません。
誰かの力を頼り、理想に共鳴しているだけの人間と非難されてでも自分の信じた道を進んで自分が動く人間と出は雲泥の差があります。
既存の「何か」を変えようというのだから常識からの逸脱なんて当たり前です。
それがわかってるからこそ強く在れるし、弱くてもうまくよけたりいなす術を持つことができるのかな、ってブログ始めて空より強く思えるようになりました。
おわりに
拾った命は漫然と過ごすためだけに使って良いものじゃない
異性との付きあい方を刷新するにとどまらず、投げやりだった人生設計をもう一度生きるための戦略に描き直し、愚直に目の前の障害を排除する。
ブログはそういった営みの中で出会ったものです。
将来の展望のことを言うなら、サラリーマンブロガーからプロブロガー形式のブログ運営者になるだけでなく、もっと面白くかつ事業採算性のあるものを見つければそちらをメインにまた育てる形で生きていきたいですね。
会社社長はやらないと思います。
オフラインで人の思いを束ね、統率するというのは向いてませんからもっとフットワークの軽いビジネスを扱う人間でありたい。
少なくともおっさん同士で集まって管を巻いてたら知らんうちに棺桶の中にいた、みたいな人生にはしたくないですね。
信念を貫こうとする人間にそんなシーンを入れる必要はないに等しいでしょうがw
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