常識や正しさばかりを追うのが人生じゃない
バリピでもなく喪男でもなく、会いたくて震えるでもなくコミュ障でもないリア充オタク、重オタクブロガーのとも提督です(・ω・)ノ
ぼくはほんの5年ほど前まではまさにそんな「常識に縛られた人間」でした。
相手からの即レスがなければ鬼メや鬼ラインを何の躊躇もなくたたき込むような男でした。
今思いだせば本気で最低だったと思います。
常識を捨て、心のままに生きることを選んだことで今のぼくには彼女もいるしもっと気楽に日々を過ごすことができています。
常識という言葉に違和感や息苦しさを感じる方、常識という言葉に自分は縛られてすぎてるんじゃないか?と日ごろから感じている人がちょっとでもこの記事読んで楽になる手伝いができたのならぼくは幸いです。
[su_box title=”もくじ” style=”soft” box_color=”#000080″] [/su_box] [su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#f5502b”] [/su_box]自分を幸せにできない人間が他人を、なんて無理っしょ?
常識人っていい世間一般で言うと。イメージがありますよね。
品行方正で、間違うことなく周囲の期待に応え、誤りを犯した者を罰し、自分にもまた厳しく律する・・・まさに、いい人像そのものです。
一方で、「常識人」というワードは融通の利かなさ、頑固さ、押しつけがましさ、失敗への過剰な恐怖心、自分自身に厳しすぎるために他人につらく当たってしまいがちと言うダークサイドが覆い隠された表現であるように思えるんです。
常識や規制に万能を求め、常識を遵守しなきゃ自分に価値はないというベクトルに志向や思考が向いてしまうため、なかなかどうして幸せになるのが難しい人でもあるんですね。
だってそうじゃないですか。
幸せになることより自分も他人もお構いなしに常識のためであれば苦行すら押し付けてしまうのですから。
正しさでは人を縛ることはできても救うことはできない
やがて、コミュ障になり、社会に出る前から壊れることも珍しく無い。
常識に万能を求める人というのは常識の遵守によってのみ人は救われるのだと信じきっています。
彼らが逸脱を阻止するためにやることの実態も、口やかましく命令をしているだけで手も貸さなければ知恵も貸さないというもの。
思考停止のなせる業そのものです。
それどころか無自覚に、害意のないままに他人を意のままに操ろうとしている節さえあります。
動機はどうであれ、自分のエゴを押し付けているのとそう変わりはありません。
人は許しと気付きによってしか救われないし、世間一般の常識から逸脱したところに救いがあるケースすらあります。
彼らは常識の範囲しか見えないのでそのような発想はないのです。
常識は万能でもなければ正しさですらない
[su_box title=”宗教だってそうだろ?” style=”soft” box_color=”#000080″] [/su_box]ゆえに万能ではありません。
常識というものの中では大いに正しくても、「人の扱い」と言う点で大いなる間違いを犯していることすらあります。
ここで常識の本質について少し考えていきましょう。
ムスリムと仏教徒では常識も違うっしょ?
たとえば宗教。
有名どころを挙げれば豚肉の扱いです。
ムスリムでは禁忌の食べ物であるため、食べるものとすら認識できませんが、ぼくみたいな現代を生きる日本人の仏教徒であれば、普通に食べていますよね。トンカツとかおいしく食べますしw
同じ日本でも江戸期以前であれば肉食妻帯は仏教者にあるまじきことなので豚肉はアウトが当時の常識です。
おっさん(京都的な意味で)が奥さんいる時点でダウトだったんです(浄土真宗を除く)!
一見、常識って永遠不変で万国共通。誰もが人として守るべき規範のようについ思われがちですが・・・
場所や時代など、条件が少し違うだけで全然違うものに化けてしまいます。
万能を求めるべき規範とするにはその実、あまりに移ろいの激しいものです (^_^;)
規制万能説が万能でないのと同じように
規範によってもたらされる正しさを常識人や常識人志望の人々は盲目的に求めています。過去の自分もそうだったように。
しかし、実態はどうでしょうか。
どれだけ規制を強めても飲酒運転は0にならないし、クラクションを鳴らし続けても並走している車は車線変更を邪魔するような走りをやめてくれない。
いくら真剣に価値観を押し付けても、怒鳴っても子供はいうことを聞いてくれなくて、思った通りに動いてくれなくて親としては悶々と悩んでしまう
きっとそんな悩みはどの家でも絶えないはずです。
なぜそうなのか?常識(そこ)に魅力や救い、安らぎ、幸せが無いからなんです。
みんな違ってみんないい
規則万能説も常識も手放して肩ひじ張ってるのをやめてしまう。
「押してダメなら退いてみろ」という格言がそれを雄弁に語ってくれてます。
違う価値観の存在を認め、そこから広い世界を学び、視野を広げることの何がいけない?
いけないどころか素晴らしいとは思いませんか?
そして、それは自分自身の胃腸にも優しいのですよ。
取り越し苦労やつまらないストレスから解放され、心身の健康を取り戻せます。
無用に他人を傷つけることに思い悩んだり罪悪感に苛まれることもなくなりますし、思わぬ場面で感謝されることもあります。
こういう姿勢のほうが社会貢献度も柔軟性も高いので生き方として素敵で魅力的です。
おわりに
規制万能説と常識なんていう頼りの無い・安定しない・地に足がつかない・実態とイメージのギャップが激しいものにすがるの、もうやめませんか?
そのために胃腸に無駄な負荷をかけるの、もったいないです。
そんなわけで健康のためにもぜひ、常識の外に目を向けた生き方を試してみてはいかがでしょうか♪
人を喜ばせることの無いモノにすがったところで、うだつも甲斐性も上がらないまま終わるのがオチなんですから(^_^)/
うだつも甲斐性もない目の前で暴言を吐くことしかできない人の言うことを聞くことに何の価値があるでしょう?
それも、彼の雑魚モンスターのコピーになるという要求とセットでで突きつけられたのならば。
[su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#f5502b”] [/su_box]