拝啓、「人として」と責め立てる自我を抜かれた木偶人形の皆様へ │ 陰キャのモテ道オンステージ

拝啓、「人として」と責め立てる自我を抜かれた木偶人形の皆様へ

拝啓、「人として」と責め立てる自我を抜かれた木偶人形の皆様へ

人としての正しさ?ンなモン誰が決めた?誰が何の義理で守る必要があるよ?

「人として~」とか「常識守っとけばそんなことには~」みたいなことを言う人の相手ってすごく疲れませんか?

ぼくはすごく疲れてしまいます。

かつてそんな言葉にぼくも支配されていましたが、体が重く、灰色でしかない日々を過ごしたものです。

そこで、人は何故にあそこまで「常識」という言葉が好きで「他人を執拗に叩く」機会を目をぎらつかせながら伺うのでしょう?という素朴な疑問を深堀して見ることにしました。

人として間違ってる?お前は神か?ホトケサマか!?

人としての正しい生き方なんて誰が決められるだろう?

自分自身をしっかり持てば「誰かが決めたから~」とか「~が言ったから」なんてセリフは口から出て来ないんですよ。

わざわざ能動的に口にする必要ないセリフだから。

国が定めた決まり事である法律はもちろん順守すべきではありますが、それ以外に自分を縛る条件を好き好んで追加で注文するなんてドMの所業ですよ。

ただ、そのドMたちのたちの悪いところは彼らが量産型であり、バカなヤツがテスト前とかにわざわざ「遊ぼうぜ~」って誘惑しておバカ仲間を作ろうとするみたいに他人を巻き添えにしようとするところ。

ドMプレイなんてものはテメェ一人で楽しむものだということくらい、いっちょ前に大人やってるなら理解していただきたいものです。

まとめ
みんながしてるとかそんな理由だけで勝手に人をゾンビ鬼のプレーヤーにするのはやめていただきたい。

常識か・・・便利な言葉だな。

常識というワードが便利過ぎて色々破たんした使われ方をしている件について

お前はどうなんだ、って言われたら多くの人は「言った通りそのままだ。」「俺の問題じゃなくて常識の問題なの」って言うか黙りこくってしまうか、という反応をするでしょう。

便利ゆえに常識というグローバルスタンダードを連想させる言葉を使ってしまった時点で「自分は誰かの操り人形です」って自分の口で言ってるようなもの。

恐らく、副作用を気にせず使い過ぎた結果、自我を見失ってしまい、生きながらにして木偶人形になったのではないでしょう。

頭痛に悩まされでもしない限り脳の存在まで見失う次元に到達してしまうほどに。

「常識」とか「人として」という言葉には「世界中の人すべてが順守すべきもの」というニュアンスが含まれており、そこに間違っているという言葉を引っ付ければたちまちそれはBANを宣告することになります。

コミュニティから。国民から。人間というカテゴリから。

ただ「俺が気に入らねぇんだよ!」という言葉で充分に伝わるところを無用に強い言葉で傷つけてしまうんですよ。

それこそ、アリ1匹殺すためにプラスチック爆弾を使うように。

 

学校教育の抱える欠陥と常識教育

親機の欠陥をユーザーの子機側で修正してプロテクトかけないとまたバグる。「バグ=常識をソースとした人としての正しさ」なのだから

学校の教師というのは基本的に自分の教えたいものを伝える職ではなく、テレビと同じで、広告主ポジションの方が伝えたいことを伝達する意外に期待される役割なんてないのです。

で、学校教育における発信者とは誰か?といえば文部科学省であったり時の国家元首に決まってますよね?

教育というのは教師自身が伝えたいことは封殺され、雇い主が伝えたいことを優先して発信する義務を負っているので、任務や目的が能力開発ではなく思考能力のオミットと常識への盲従にあるなら後者が当然のように優先されるのです。

自分というものが死んでいる文部科学省の操り人形のサラリーマン教師、会社に支配された操り人形の親や親戚、近所の人。

そんなのに囲まれれば自然と子供も自分の頭で考えることをやめてしまい、誰かの糧になること以外期待されないからといって馬鹿正直にその通りになってどんどん自分を捨てていくしかなくなります。

自分が人間という生体端末であるということも忘れてしまうホドにまで。

誰かの都合のいい存在になるために用意された常識なんてものに目もくれないぼくは厚生労働省や文部科学省から見れば異常動作を起こした規格外品でしょう。

だからこそ、自分に価値を感じます。
量産機ではなく規格の外でストイックに生きてる専用機や実験機、カスタム機の類なのですから。

まとめ
思考能力のオミットと常識への盲従こそが教育の命題であり、達成率を上げるべき数字である。
既得権益側から物事を見ればそうすべき理由があり過ぎる。

考えなしに人格攻撃するそのまえに。

人としてのBANを宣告する場合、それ相応の面倒を処理する手間を背負うことになる

もし、人に気持ちを伝えたいのならわざわざ人格攻撃になる言葉を使う必要性はありません。

ですがそれ以前に、そんな相手を修正する手間をかけてもその相手と付きあっていきたいと思いますか?

人格攻撃を含んだやり取りはある意味ラクですが、別の面倒を引き寄せることになります。

例えば、格闘技の試合や喧嘩の時に相手から拳がとんで来たならそのまま馬鹿正直に食らいますか?
防御しますよね。

その理屈を仮にtrueとすれば、自分の意思を伝えるためにはまず相手をダウンさせなくてはならなくなります。

ところが困ったことに、ダウンした相手に言葉は届きません。

拳で届くのは恨みや怒り、憎しみと痛覚、苦痛だけで、本心がわかるなんてのはマンガだけの話です。
肉体言語など幻想です(ジト目)

意識がなくなるか心が完全に壊れるかしている状態に「伝えたいこと」という拳を打ち込んでも暖簾に腕押しなのです。

「(無駄に)強い言葉を選ぶ」というやり方を選んだ時点で相手に気持ちや意思を伝えるなんて無理ゲーになるんです。

中には「ダウンした=意思が伝わった」なんておめでたい考えをお持ちになる人もたくさんいるみたいですが。

 

おわりに

遠くで幸せになればいい。傷つく必要性なんてどこにもないから。

ベターなアンサーはこれ。
いったん疎遠になることをためらわないことです。

もし、縁があってまた惹かれあえば古い話なんて忘れてまた仲良くなればいい。
無理ならそれまででいいのです。

「彼女だから」、「友達だから」なんて条件に縛られ過ぎず、もっと気楽に考えていきた方がメンタルヘルス面でもいいですし、むやみに精神疾患で潰れた人間を粗製乱造する必要もありません。

そんな役割はブラック企業だけで十分すぎるくらい間に合ってます(ジト目)

常識なんてへのツッパリ。
誰かの言う「人として」という言葉に大した重みなんてないと考え、気持ちよく生きることにとことんこだわりませんか?

ぼくは「人として~」と詰め寄ってきたかつての友人もそうやってケンカ別れして放置することになりましたが、その代わりにぼくはこうして気楽にブログが書ける。

休日がくる度に誰かに呼び出されることなく極めて淡泊でストイックな生活を楽しみ、ときどき濃厚な豚骨ラーメンを孤独に楽しむこともできています。 ときどき彼女と一緒ですがね(笑)。

おかげで・・・いい気分だぜ・・・!!

すぽんさーどりんく


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