サイコキラー・シリアルキラーと言う人でなしを分析する
人体を損壊することに対しては人ってすごく敏感に反応しますが、対象が家族であろうと他人の心は遠慮のえの字すらスルーして殺すことができるのも人です。
家族同士が仲良くあって欲しいと願う子供が目の前で片親を失い、生き残った方はさっさと愛人とよろしくやりはじめる。
など表向きは何の残虐さも感じられないよう処理されていく日常の点景が当事者の中にいた子供の心だけを綺麗にを壊す、なんてことも。
人は心が死ぬとどうなっていくのでしょうか?
また、アニメや漫画はある議員さんや一部の識者が言うように人の心を殺し、シリアルキラーに変えてしまう要素を持ち得るのでしょうか?
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悪魔になるか死者となる
ヤギと聞くと必ず連想するのがバフォメット! pic.twitter.com/Yt4PSrtDWd
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2017年6月7日
どちらにせよ、もうその身は人の心を宿していない
悪魔とも言えるシリアルキラーの類と死者にはある共通点があります。
人体と言う物体の中に「人の心」が無いことです。
・違うものが入っているか器そのものが破壊され、「中身も何もあったもんじゃない」状態になっている
・動いているか永久停止しているか
程度の違いしかありません。
生者である精神疾患の患者とシリアルキラー
生存はしているが中身だけが爆発四散して損壊しているのは精神疾患で引きニートしてる人とシリアルキラーですね。
中身が空洞化し、フリーズしてるのが前者で、後者は「人の心とは別の何か」が入っての肉体を支配することで「一応は」通常稼働している状態だと言えそうです。
シリアルキラーになった「かつて人だった」存在達はもはや直ることを諦め、放棄すると決めて人間であることそのものを捨て去ったガチモノの悪鬼羅刹なんです。
例:なぜ他人を能動的にS〇TSUG〇Iしないのか?という判断基準
常人とそうでない場合は決定的に「理由」が違う
多くの人はモラルや規制に対する信頼がすごいんだな、と良くも悪くも感心します。
「他人の痛みが解らぬか!?」「迷惑だから~(鉄道自殺などは)やめろ!」
といった規制や制止をかける言葉に有効性を感じ、彼らもまたそういう価値観を宿しているのだと捉えられますから。
どこまで本音なのかそれとも思考することを放棄しただけかまでは深く追及はしない。
少なくとも100%虚構と言うわけではないというところはわかります。
が、そんな言葉に虚しさや実効性の乏しさを見出してしまった人間だと「殺さない理由」はどういう風になるのでしょう?
ぼく:S〇TSUG〇I=デメリットの塊な上、個人的な理由でもする理由がない
ぼくはグロ画像の「画像だけなら直視できる」程度の耐性がありますが、臭いの合わさった複合的な情報になると耐えられる自信はありませんね。
人体に風穴を開けたら、厚い皮膚が脂肪と共に二重で密封し、気密性を保っていた臓物と血の匂いが一気に噴出します。
ぼくは関西人らしく悪臭が苦手なので不快情報を自ら取りに行くようなまねをする理由がありません。
あとは完全に損得勘定の世界です。
損得を考える=人間としての原型くらいは留めている
確かに、腹の立つ人間を全て消してしまえばぼくを含め誰しもがストレスなく生きていくことはできるでしょう。
がそれは極めて現実的でもありませんし手間もかかります。
手間暇かけている間に捕まるのがオチです。
それでもS〇TSUG〇Iによる不利益を被らないためには周到な隠蔽工作を施す必要が出てきますからね。
座間9遺体事件のような「遺体の一部を放置」なんてボロがでるようなことって「不利益を被りたくない人なら絶対にしない」でしょう。
それが却って欲求不満の種になる悪循環になってしまえばまさに本末転倒です。
まして殺しの理由が「SNSで腹を立て、対処不能を感じた時」なんて無駄以外の何物でもないですよ。
何故なら、SNSをやめるかミュートするかブロックすれば手間もボタン一つで終りますし、罪に問われることもありません。
より合理的な手段が転がっていてそれを使わないと言う理解不能なほど頭の悪い選択がされたことになりますから。
悪魔として「余生」を送る生き残り「サイコキラー」
能力が高く、能力でSurvive出来る程度の人間だと?
恐らく、上の理屈が理解できると言う点ではぼくも相当に常人からかけ離れた価値観や理解を持っているのかもしれません。
シリアルキラーと化した悪鬼たちはもう人間として過ごすことはできないでしょう。
彼らの場合、「人間というカテゴリーで生きるということすら」価値を感じなくなり、見えないものになっていますから。
つまるところ、もはや彼らは「他人の痛みを理解する」どころか警察に捕まろうと死刑台に送られることすらもアウト・オブ・眼中なんです。
わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に、生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。 あのガキが8人死んでくれたから、俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!! でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!
— 宅間守 (@takumamamorusan) 2017年11月7日
↑こんな感じで。
物理的な制止の無い限り人間の感じる時間の概念すら超越して殺人という「作業」を繰り返すだけの殺戮マシーンとなります。
人の心を失い、人であることそのものを捨てて別の物に憑りつかれたという表現すら妥当と思えるほどの理解不能性に彼らは満ち満ちています。
ぼくが推し量れるのも、これだけの説明をしておいて「もはや彼らは人ではない」ということくらいです。
「アニメや漫画が殺人鬼を産んだ!」はあまりにぞんざいすぎる考察だ
ポジショントークにすらならない「殺人鬼発生メカニズム」
とある政治家や一部政治活動団体は猟奇殺人事件があればお約束のようにこのような発言をします。
テレビも彼らの視聴時間(あわよくば臨時収入も?)を手堅く得るために「そういう表現」を必ず組み込みます。
ですが、それはポジショントークと言うにはあまりに雑なものなんです。
シリアルキラーのアニメ根源説を「雑すぎると断言できる」理由
先述しましたが、シリアルキラーになるということは、「人間であることを根本的にやめてしまう」行為です。
比喩でもなんでもなく、文字通り「鬼」という人外になり果てている状態でない限りありえません。
アニメや漫画の残虐シーンを見てヒャッハーするのはほんの一過性の出来事にすぎません。
そんな衝動性はヒトカラ熱唱や無双アクションでオンライン対戦!でもやっていれば処理できるレベルです。
グロ描写に定評のある有名アニメをもってしても、nice boat.事案があっても人間の心を壊すほどの衝撃はありません。
極めて気軽かつ理性的に「みんなのトラウマ」ネタとして淡々と処理されます。
そもそも公共の電波に乗ってるものや一般書店に並んでいるものがそれほどの害を及ぼすと声を上げる方がどうかしているのです。
おわりに
アニメと現実とシリアルキラーの背景と
カミーユや、ディオ・ブランドーのような壮絶な闇が存在する生い立ちでもない限り、こんな歪みは起こり得ません。
佐世保の同級生解体事件のサイコJKもそうだし、アキバ誇店大量殺戮の犯人もそうだった。
例に出した「池田小大量殺戮」の宅間守もまた、父親の激しい暴力と母親による異常なネグレクトと言う日常下にありました。
人でなしになるほどに歪むだけの根拠が彼らの背景にはしっかりあります。
アニメや漫画の話をするならカミーユやDIOはかなりマイルドに描かれているあたり、マンガやアニメはむしろ理性的に描写していますよ。
[speech_bubble type=”fb” subtype=”L1″ icon=”tm.jpg” name=”てーとく”]人と言う俗物でありながら残虐行為に手を染めたティターンズのバスク・オムとかは味付けでどうにかなるものではないけどね。(理屈も何もかも違いすぎるため)[/speech_bubble]アニメだけが原因で闇落ちなんてありえないし、「人ではない何か」と化した以上は修正はできないです。
彼らを分析し、歪みの種を取り除くための教訓に変え、活動できないよう処分することしかぼくら人間にはできません。
アニメの規制以前に実効性のある防止策
人として健やかに在れる環境を整備することに尽きます。
貧困が起こらぬように。
かつて労働万能説を確立していた時のように。
「荒れなくても幸せ」が約束される環境作りであり、国づくりです。
アニメゲーム市場という閉ざさなくていいマーケットを閉ざして経済的な困窮を加速させることではありません。
残念ながら国はそこまでフットワークの軽いものではないので、各家庭が各々で変革していくことの方が現実的と言う状態ではありますがね。
せめてそれを支援するくらいのことはやって頂きたいと切に願います。
シリアルキラーをこれ以上増やさなくていいようにするためにも。
徹頭徹尾、みんなが平和ボケできるようにするためにも。
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