躾のなっていない駄犬が社会に適合した人の中にもいる理由
躾のなってない子供って躾のなってない親から生まれている。
という当たり前が新しい気づきなように思えた。
社会の歪みを盛大に感じてしまった。。。(^◇^;)
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2017年12月7日
量産型の親のする「躾」が模範を示すどころか反面教師になっている、と言えば不思議に思いますか?
「激おこ」して従わせるという間違い
駄々をこねれば人は動くという共通の本質
スーパーでよく見かける駄々をこねる子供に対してみられる親のリアクションは決まりきっています。
怒鳴りつけたりシバいたりして強制的に言うことを聞かせるという行動。
これは「駄々をこねる」という子供の行動に対し、「目には目を」で対抗し、体格差と立場でごり押しすることで強制服従させるという結果を導き出しているにすぎません。
目の前の面倒こそ回避できていても躾そのものは成功していません。
「目には目を」とは「同じ手段を使う」という意味の言葉でして、イコールを意味しています。
したがって、子どもの行動と親の行動の本質がイコールで結ばれることになるので「親も駄々をこねている」という解が成立します。
よってこの方法で子供が学習することは「親の言うことに従う=正義」や「親への服従=身を美しくする」ではなく「体格面の不利を埋めればどんな相手も服従させる権利を持つ」という内容になるのです。
「ウチの子は懇懇と言って聞かせれば毎度必ず従う」という現象は発言力と体格差によって実現できているのですが、当の親は「躾の成功」と誤認し、全く気付かないケースが圧倒的に多いのです。
身を美しくできない「しつけ」が次世代も量産型にする
目の前で服従させるだけの行為を躾とは呼ばない
青あざだらけの顔面も、美しいと思われる方がいるかもしれませんがw
一般社会に適応することに特化している量産型の家庭で行われているしつけは概ね「目の前で服従させることの身を目的とする」処置が躾だと誤解されています。
躾とは本来、躾を施される側の人間がスマートに生き、自分の不利益を防ぎ、道理に従う益を心得、所作や立ち振る舞いを洗練させ、人格を磨くためにあるものです。
一般社会に適応した立派な人たちの中に、我田引水を目論んで乱暴な運転をする人間がいる理由は躾によって書かれた情報にエラーが発生しているためでもあります。
先述したエラーを誘発するコードにより、「車という馬力のある道具を装備しているので、相手を屈服させる権利を得た」と誤認。
それによって自制心というリミッターを解除してしまい、下手を打てば交通事故をや犯罪すら起こしかねない暴挙に訴える癖がつくわけです。
躾が躾として機能していればこのような道理を外れた行動が起こることはありません。
人間という動物はおいしいと思うことを決してやめることはありませんからね。
道理と一般社会への適応は全くの別もの
「躾の失敗」の厄介なところはどこかの代で誤りに気づいた人間が出なければ永遠に遺伝していくことになる点ですね。
社会に適合するとは、労働万能説が生きている時代の常識に盲従することを美徳として刷り込まれ、画一化されることを正義とし、その理屈に従うことです。
超自然的な道理ではなく、誰かの都合に寄って人為的に作られた「常識」に沿うだけでその正義は達成されるわけです。
躾とは道理に従うことを教えることなので、常識とは無関係です。
常識人でも頭ごなしにSir yes sir!を強いる人はいますからね。
世間一般の常識さえ遵守できていれば常識人であることだけはできますから。
量産型の躾が子供を勉強嫌いにもする
勉強は苦しいとことなので、子どもが苦しんで勉強していると安心するという発言をした保護者がいたが、勉強に限らず、苦労したり我慢しないと成長しないと思ってる人が日本には多そう。目的の為に結果として苦労するんじゃなく苦しむのが前提みたいな。 #ウワサの保護者会 pic.twitter.com/e6XV9U6PDu
— ミスターK (@arapanman) 2017年12月2日
ここまでフルコンプすると伸びしろのない量産型が90%ほど完成している
量産型にとって勉強とは苦行です。
子供に勉強をさせる時、多くの量産型は勉強によって生み出される成果など見向きもせずに苦行であるかどうかばかりに目を向けます。
そうすることで子供の脳にも「勉強=苦行=下の世代に強いるべきもの」というコードが書き加えられます。
そのまま彼らが社会人になるとどうなるでしょう?
勉強する意欲が0になった伸びしろ0の使い捨て型の労働力になることは目に見えていますね。
こうして伸びしろのない大人が伸びしろのない労働力を再生産という無限ループ現象が発生するのです。
おわりに
量産型は労働万能説とともに20世紀に取り残され、オワコンになる
ぼくらが従って利益のあるものが世間の常識だったのは今や昔の話です。
もっと物事の本質を見る目を磨くことの方が重要要素でしょう。
たとえ常識から外れることになろうと道理に従う方が利益があります。
それに、口やかましく常識を説くよりも身を美しくした方が異性にもウケますし。
躾にこそ深謀遠慮を発揮し、「稼げるこども」を作りあげ、自分もまた量産型というくびきから解き放つことが求められるのではないでしょうか。
子供も自分も「躾のなってない駄犬」と見られるのは心外ですもんね?
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