不幸はいつだって「脳の使用量不足」からやってくるんだよね
彼女が勤務先で同僚にTwitterで好き放題に書いてたことを上にチクられた。
そこから、「いじめ」「ネットでの誹謗中傷」について分析する機会があったので分析したことをまとめることにしました。
最初に断っておきますが、彼女もノーガード戦法すぎたところはあったことを理解したうえで分析をしましたので彼女を擁護するための記事ではないことを理解した前提で読んでもらえれば幸いです。
先述の未熟さについては大いに反省していただき、痛みの記憶とともに今後の成長材料にしてもらいたいので。
[outline] [su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#f5502b”] [/su_box]多数派はみんな誰かを「いじめ」たい
多くの人は誰かがやらかしてくれるのを待ち構えている。
893の因縁レベルでもいいなら大義名分さえあれば他人を病院や自殺に追い込むまで罵倒していいとすら思ってるから。
友達でさえその娯楽のために陥れることもあるほど。
みんなそうでもしないとやってられないようだ。
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年1月14日
日本とは運の悪い個体が海に落っこちて「決死の先遣隊」になってほしいとみんな願ってる国だ
氷壁の水際で飛び込むのを躊躇っている大勢のペンギンたちに例えましょうか。
彼らのうち、一羽が飛び込めば海の中に獰猛なあざらしがいるかどうかが分かるわけです。
無論、誰も死にたくはない。というわけで彼らはひたすら待つのです。
氷の上で押し合いながら「ツイてない誰かが海へ落ちてゆくのを。」
日本という国もまた多数派の不幸を前提に既得権益が守られている国だと言えば言い過ぎな部分こそあれ、決して間違いではないでしょう。
誰かがちょっとでも責める余地のある落ち度を見せたら大声で「ギルティ!」と叫んで物理的なものであれないものであれ、とにかく石をぶつけたい衝動に駆られている人たちが現代日本の多数派。
ネット投稿の炎上があれ程無駄に燃え上がる理由の説明としてこれほど的を射た指摘もないと思うのですが、いかがでしょう?
教条主義にがんじがらめにする上、詰め込み型に傾倒している今の教育の環境が計画的にそのような人を作っていることもいい裏付けになりますね。
いじめをやめられない原因
炎上騒ぎに乗っかって他人を痛めつけるのがなぜやめられないか。
自分は幸せになれないのだと諦め、塞ぎ込んでいるからだ。
幸せになるための努力を怠るどころか放棄すらしているからだ。
だから他人にも絶望して欲しくなる。
そして幸いなことに、正論という便利な道具が転がっている。
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年1月14日
いじめはバカにしかできない。そして多数派の多くは「バカ」だ
諦めたら試合終了。
よって、「幸せをあきらめた」瞬間に不幸になるしかない状況に立つわけです。
諦めてしまったものを直視するなんて苦痛以外の何物でもないですから見ることさえやめてしまうのは当然。
とすれば、数か月もすれば幸せというものの輪郭さえわからなくなるのもまた道理でしょう。
同時に、幸せそうに過ごしてる人が激しく妬ましく思え、自分と同じところに引きずり降ろしたくなるし、そうする以外自分が嫉妬しなくて済む方法が見えなくなります。
すると、彼らが取る方法は限られてきますね。
死ぬか、ひきこもるか、いじめという名の無駄に身をやつすかのいずれかに。
いじめなんてものは本来必要のないムダなもの。
そして、幸せを諦めたものが仕掛けるもの。
ではなぜ、人は幸せを諦めてしまうのか?
答えはこうだ。
自分の頭を使いきれてないから。
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年1月14日
死にたくない前提なら、「死ななくても実行可能」である「いじめ」というやり方に走る方は非常に多いでしょう。
人のアラなんて簡単に見つかります。
その上、いじめ行為を正当化する為の「正論」はいじめをリンチに変えるのにすごく便利で使い勝手もいい上、配り歩くほどにごろごろ転がってもいますし。
いじめという娯楽ほど手近にすがりつける手段もないですからね。
それこそ、近所に建ってるパチンコ屋にホイホイと吸い込まれる感覚で。
「死ぬ」という選択肢でそこそこ。「ひきこもる」という選択肢だとかなり理知的だと思えるほどです。
なぜなら、「いじめという手段にすがっても苦しみの炎に焼かれ続けることに変わりはない」ということを理解してるから。
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] パチンコ屋にホイホイ吸い込まれる様なアホな多数派ほどいじめを中毒みたいに楽しむ[/su_box]
【いじめの原因】日本の教育がいじめを計画生産している
勉強してるのに勉強不足に陥る癖がつく教育がいじめを加速させる
日本の教育とは基本的に座学で講義形式の授業を聞くことです。
公式の使い方を聴き、ひたすら示された答えを聞くような「受動一辺倒なやり方を」
宿題という方法で「定着」を目論む形で。
宿題を予習ではなく復習重視にすることで予習という「ワクワク」を取りあげてまでこのような形にするのは何故でしょうね?
そう考えると「教条主義」と言う要素の存在感が非常に雄弁に存在感を語り始めます。
「自分の頭を使う癖を剥ぎ取って君らを人の言うことに盲従するだけの人間にしたいんだ!」という教条主義的な教育を作った人間の本音と一緒に聞こえてきます。
そんな背景を理解した時、「不幸」、「量産機である多数派」、「いじめ」という3つの要素がリンクし始めます。
有り体に言えば勉強不足。
けど、インプットはむしろ飽和しているくらい日本人は勤勉。
なぜ勉強しまくってるのに勉強不足になっているのかと言うと、、、
インプットからその先に進んでないから。
アウトプットからインプットをアウトプットするための変換処理が不足している。
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年1月14日
勉強という言葉を「インプット」とイコールに結んでしまうような授業のあり方は勉強量をいたずらに腐らせるんですよね。
実践と結びついてこそ人は本来、初めて価値を感じ、理解するところまで至ります。
セミナー貧乏が「受講したことに満足してしまう」ために発生してしまうのはこのため。
セミナーに参加した=学習した=勉強したという風に脳が処理してしまうから彼らには実践が足りずにウザいだけので結果の伴わない「意識高い系」にしてしまうんですよね。
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 幸せはアウトプットなしにマイニングできない[/su_box]
いじめないとやってられなくなる「勉強」とは?
結果を出すのにアウトプットは必要不可欠。
そして、アウトプットできるレベルにまでインプットした内容を脳内で処理しないと身についたことにはならない。
アウトプットできないと言うことは結果を出すことができないのと同義。
結果を出すことで人は初めて幸せというポイントへアクセスできる。
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年1月14日
人はアウトプットというコーディングをすることで初めて幸せに「一歩近づく」
実践なくして結果はなく。 結果なくして幸せはありえません。
アウトプットという名の実践をして初めて幸せという場所に自力アクセスできる権限を得ます。
インプットした内容は確かに重要ですが、「インプットした内容を自分の言葉で語って自分の手で形にする」ところまで試行錯誤をしないことには「理解した」とも言い難いんですよね。
理解したと始めて言える段階に達してこそ、はじめて「勉強した」といえる段階なんですよ。
それこそ、BT-7やクルセイダ―を作ってこそイギリスやロシアが「クリスティ式サスペンションを使える国」なのであり、ジョン・W・クリスティ氏の試作戦車を買っただけでは「使える国」ではないのと同じで。
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 勉強というのはインプットした技術を「使いこなせるようになった状態になるまで」を指す[/su_box]
おわりに
いじめを仕掛けるのがやめられない奴は幸せをあきらめたバカ←結論
匿名質問箱を誹謗中傷を好き放題にばらまくために使ってる人がバカなのもこれで証明できます。
なぜ、そのようなバカな手段に身をやつし時間を消耗させることができるのかという説明がつきますからね。
実践のなさが人を幸せから遠ざけつつバカにし、インプットしただけで勉強した気になるから実践にたどり着けず、バカを放置するしかなくなったように錯覚するから不幸になるしか見えなくなります。
不幸になるしか見えないけど死ぬのは嫌だし地頭力が足りないからいじめという手段で燃えるような嫉妬の炎に苦しむ感覚をマヒさせようとその場しのぎに終始する。
これが、いじめが発生するメカニズム。
自分の頭で考え、実線を重ねることでしか、不幸やいじめ依存という地獄から自力脱出することはできないのですから。
[su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#f5502b”] [/su_box]