ケチをつければどんな暴言だろうと何でも批判として処理されるってどうよ?
どもども!批判という言葉があまりに気軽に使われると感じる現代文の成績優良者だった男、重オタクリア充のとも提督です。
最近は暴言や誹謗中傷も「批判」と捉えられ、悪を断罪するために活用されています。
暴言や誹謗中傷と批判の間にある意味的な溝や、暴言を吐くという悪をことごとく見逃していくように。
そんな光景を見るとゴシップ誌や新聞というのは紙を売っているのではなく、免罪符を売っているんじゃないかとすら思えてなりませんね。
そこで、批判とは本来どういうものを言うのか?
なぜ、批判という文字が目の毒になるほどネットニュースのトップページをはじめ、どこを見ても目に付くのか、ということについて掘り下げてみることにしました。
この記事は2018年6月3日に全面リニューアルしました。
[outline] [su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#f5502b”] [/su_box]批判ばかりが見出しにあふれる古いマスメディア
売るために憎悪を煽ることしかできない芸能人の批判にすがるテレビ
ニュースサイトやテレビ、新聞といったオールドなマスメディアは毎日のように誰かの過失をあげつらって非難する記事ばかりを公共の場に垂れ流し続けています。
深いつながりを必要としない人を動かすのに必要な三要素が「恐怖・義務感・罪悪感」ですからね(^◇^;)
テレビも視聴率を手堅く稼ぐためにそれらに頼るからこんな風になるんじゃないかと(^◇^;)
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年5月24日
悲しいニュースばかりでガッカリという声は結構あるはずなのにどうしてマスメディアは「やめられない」のでしょう。
そんな疑問に一つの答えを出すことができました。
「徹底的に暴言や誹謗中傷に興じる者の味方になることで視聴者を確保する」
という目的があると仮定すればテレビをはじめとするマスコミが「批判」ばかりに傾くのも辻褄が合うのです。
ただの暴言だろうと個人攻撃だろうと「批判」と言ってもらえれば小気味もいいし、個人攻撃ではなく彼らの暴言などを批判だとマスコミが言えばその誤用にも公共性が付与されます。
芸能人が暴言を放ち、それをマスコミが「批判」と呼ぶ、なんて派生技もありますし。
そうなると顧客は「自分は正義の味方なんだ!」と思えるし「暴言を垂れ流すだけで正義になれる」心地よさに酔えるのでテレビや雑誌、新聞にかじりつき、便乗してネットニュースとかに自分の発言を「批判」として使われるために頑張って暴言を量産しますよね。
人間に取って誰かをほめるよりこき下ろす方が楽しく、麻薬的な快楽があることを知っているマスコミにとってこれほど都合のいい手法はないんですよ。
「批判」って言葉、意味通りに使われているか怪しいね
誹謗中傷とか非難、不満と混同してるっぽい!
国語辞典には確かに、「誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること」とありますが、他にも「物事に検討を加えて、判定・評価すること。」「認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。」があります。
ただ、実際のところくだらない芸能ニュースにて紹介される「批判」コメントは「~を信じようと言ってる人はバカなの?」とか「裏で遊ぶのは勝手だが隠し通せ、クズ」など非難という言葉の意味にある「正せ」ではなく「アホ、ボケ、カス」というただの個人攻撃や暴言となっています。
「人気商売やってる人間はファンの信頼あってナンボ。ファンの信頼を失うような行動はおかしい。それができないなら辞めるのが筋だ」といった形で「まっとうな姿勢」と「対象による誤った言動」を挙げ、そのギャップについて言及、コメントするのがまっとうな批判です。
ヒトコトで言うなら「貴様の立場なら~する(である)のが筋であるはずだが、貴様は~した。このエラーを修正せよ。」ですね。
[su_box title=”混同しやすいパターンのまとめ” style=”soft” box_color=”#000080″]- 意見→私は~だと思う(そこからズレた貴様は間違っている)
- 非難→~するとか最低だな。人間のクズだ!
- 誹謗中傷/暴言→人間のクズだ
【心理】どうして人は不快でしかない「批判」という見出しにに注目してしまうのか
「芸能ニュースがくだらない、でも見ちゃう?」わけがわからないよ
芸能ニュースというのはマスコミにとって重要な収入源です。
先にも挙げましたが、誹謗中傷という行動に麻薬的な魅力があり、それに取りつかれた層が存在してますから手堅さというおいしさがそこにありますからね。
ぼくはこんな指摘するための記事を書く以外の目的で芸能ニュースを精読することなんてないんですが、読んでみると見出しから本文まで徹底的に「批判中毒者」たちが喜びそうな内容だと痛感しましたよ。
「芸能人とかの名前+批判」という見出しにホイホイされるのは暴言や誹謗中傷に依存し過ぎている「批判中毒者」なので、ネットニュースとかに踊る批判という言葉はまさに批判中毒者にしてみれば誘蛾灯のようなもの。
「芸能ニュースがくだらない、でも見ちゃう」ではなく、見ちゃう人々である彼らの心理状態は、「批判中毒者」そのものだから「無視できない」、というわけ。
見出しに【心理】とはつけたものの心理について語ることなんて何一つない、実に商業的なからくりなのです。
[su_box title=”つい芸能ニュースを覗いちゃう批判中毒者の心理まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″]- ネットという匿名で保護され、相手の反応を待つ義務もない歯止めが利かなくなる環境が整っている
- 自尊心の低さや弱さ、強いコンプレックスに毒されている
- それらの結果、攻撃対象である誰かの粗を餓鬼道に落ちた餓鬼のように求め彷徨い、這いまわっている
【対処】批判は甘んじて受けるべきだが、誹謗中傷は流していい
「批判」の95%ほどは快楽目的の誹謗中傷だ
多くの家庭には未だテレビが健在で稼働状態にあることは多くの人々がまだまだ批判中毒者である証拠です。
ですので、多くの批判コメントというのは単なる誹謗中傷や不平不満の域を出ることはないでしょう。
批判を書きこむ上で守るべきルールがしっかり守られたものなら、受け手は真摯に受け止める必要があるでしょう。
ですが、誹謗中傷に埋まったコメント欄なんて見る気が失せるので、そのために貴重な批判が埋もれ、見逃してしまう原因にもなりますね。
もし、社会正義に殉じるために誰かを否定して相手に姿勢を正してほしいと願うならば、まず自分の書こうとしていることが批判なのかただ暴言を吐きたいだけなのかを明確にするだけの思慮分別くらいはできなくてはダメです。
相手がナンボ非道であろうとこちらが非道をぶつければどんな理由があろうとも同じ穴の狢でしかありませんからね。
よって、批判をしたいなら、ナンボマスコミが暴言を批判であると言いかえてくれるからってそれに甘えてはいけません。
相手に不満をただぶつけるのではなく、読みやすく、受け取りやすく心を砕いてコメントを作成し、相手に確実に届くよう計らうのが批判をするものとして通すべきスジです。
おわりに
誹謗中傷は正義の鉄槌かもしれないが
剣にも正しい振り方があり、洗剤にも正しい使い方があるように正義の鉄槌にも振るい方ってモンがあります。
もち、批判についても。
それを履き違えた頭の悪い麻薬中毒者のごとき外道どもを増長させ、ガチホする人々がいる限り、日大アメフトやら山口メンバーのごとき娯楽が消え失せることはないでしょう。
そして、この手の外道の論理や考えはテレビなどのマスコミ産業にとっておいしいだけのものであり、公共性はあろうとそこに正しさがないことは人間として自分でモノを考えて生きていくつもりなら知っておかないといけないですね。
ただ、集団に埋没して徹底的に考える機能を殺して部品になり、正義の鉄槌を振るう装置になるというのも一つの生き方です。
もっとも、ぼくはそんな人を部品や設備として見ることはあっても人間とは見なしませんけどね。
考える力をフルに使うのが人間という動物である条件だと思ってますんで
[su_box title=”あわせてよみたい(オピニオン)” style=”soft” box_color=”#00a3af”] [/su_box]