自分が人外になる必要もなければ他人が人外になる義務もない
過剰サービス、という言葉が流行したこともありますが、多くの量産型日本人はデフォで過剰サービスを強く求める傾向にあるようです。
そんな言葉が使われ始める前から過剰な要求をパートナー、友人、我が子、後輩や同僚に突きつけることは常識の範囲として20世紀の日本人の中では処理されてきましたからね。
ですが、20世紀は終わり、平成も残すところあとわずか。
そろそろ、教育について反省をしてもいい頃だと思うのですがいかがでしょう?
いい教育の条件@日本
一般的な量産型にとってのベストな教育とは毎日口うるさく、どやしつけることを言うらしい
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年2月22日
苦行・荒行至上主義
「兄弟が複数いて口うるさく暴力もいとわない親が恐怖政治を敷き、貧しさやひもじさといった苦難に耐えぬいた子供時代を過ごす」というのが一般的な量産型日本人にとっての「理想的な教育」です。
「DVが常態化し、無計画に子供を産み、その子供の食費をパチンコか何かで溶かす」ことで実現できる簡単レシピなんですけどね。
[speech_bubble type=”fb” subtype=”L1″ icon=”tm.jpg” name=”てーとく”]ファンタジーの世界なら魔王化、雛見沢ならL5一直線すよ?[/speech_bubble]いい教育が生み出した子供がどんな風になってしまうかは想像に難くはありません。
ぼくは読者様を含め、一人でも多く「達成不可能な理想」に縛られない教育を考えてくれればと願ってやみません。
履行できない約束を締結させようと迫る傾向
守れる保証のできない約束を突きつけられるのは辛いですね / #モクレン 恋愛トーク。 https://t.co/hLXCaCELxH
— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年2月22日
契約書など所詮紙切れ。人智を超える力はない
重すぎて愛想つかされる恋人が相手を縛るために良くやろうとするんですけど、これほど本末転倒な結果を呼びやすいよう灸はないですね。
サトゥーさん(デスマーチから始まる異世界狂想曲)みたいなチート使わないと達成できないことを只人の愛で乗り越えられるようなら「なろう系」ラノベが200万部も売れるなんてことはないでしょう(真顔)
恋人も我が子も自分も、チートキャラでもなければ上級魔族でもないわけですから人の身でできることとそうでないことを冷静に分析した上で欲求を伝えるくらいのことはできないといけません。
自分が無知無学なまま他人の能力に依存し、その他人に責任を追わせて自分はおいしいところだけを頂くような汚らわしい下郎ほどわかっていません。
契約書で約束を果たそうとしたところで逆に三下り半を突きつけられるものです。
100%契約違反の責任を咎められて実害を被るとわかりきっている契約書にハンコをつく者などいるわけがないし、仮にいたとしてそれを満たす能力を備えた人間とはかけ離れたバカだともいえましょう。
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 思慮分別はヒトでもできるけど、思慮分別を書いた欲求を押し付けられてもヒトは履行できない[/su_box]
日本の言う「いい教育」が鬱を量産する
人は狂おしいほど自由を求める生物。逆行を強いれば当然こわれる
例えば、輪ゴムを伸ばそうとするには引っ張らないといけませんし、手を離せば元に戻りますよね。
「輪ゴムを伸ばす」=「輪ゴムに負荷をかける」行為ということと、輪ゴム側に「伸ばされたくない」という欲求が存在することわかります。
「輪ゴムが壊れる」というのは過度の負荷をかけたら切れることによってもたらされる結果であることもまた誰もが知っていることでしょう。
輪ゴムの立場が子供で、世間や親が「輪ゴムを伸ばす人」という図式に当てはめて説明すれば、多くの日本人にとっての理想の教育は輪ゴムを切ってしまう前提で負荷をかけているに等しい行為です。
「うつ病患者が計画量産されている」とすら言えてしまうほどには深刻な状況なんですよ。
うつ病患者が増えることは社会にとってもいい状況ではない上、ぼくらにとっても旨みが少ないことはタコでもよくわかるくらい当たり前のことですよね?
うつ病患者を量産する様な悪に手を貸すことが理想でもなければ頭のいい選択であるとはとうてい思えない、とぼくは愚考するのですがみなさんはいかがお考えでしょうか?
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 刷り込まれた理想の追求→鬱病量産→保険料の引き上げなどの不利益[/su_box]
「みんな」「常識」と言われれば何でも従うのはもうやめにしない?
「みんなそうじゃん」
過度の躾でも出て来るワード(^_^;) / #モクレン 恋愛トーク。 https://t.co/hLXCaCELxH— 重オタクリア充とも提督 (@tomo3000sf) 2018年2月22日
思考停止に陥った者の言葉で制止するな・させるな
思考停止という現象が社会悪にまで発展していると十分に言えそうですね。
ぼくらは教育という分野へ常識至上主義や多数派至上主義といった「思考を放棄してもできる」要素をあまりに持ち込みすぎたのかもしれません。
状況分析するより早く「ギルティ」と叫ぶその様に人が備える最高の機能「思考」を行使するスキマはないのですから。
20世紀が常識に盲従する時代だったなら、21世紀はその反省を生かした常識が設計されてしかるべきでしょう。
当然、20世紀の日本の常識が奨励してきたように思考によって発展してきた生き物から思考を奪い去るようなことも害悪です。
甘やかされたものが歪むことは証明済みですが、「負荷を加えられ過ぎた者が歪まないわけがない」ということもまたぼくらは知る必要があります。
実験によって得られたデータをフィードバックせずに放置することが悪である、ということも添えて。
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 「厳しいは正義」というのは脳筋すぎやしないか? その条件が絶対正義であるならば事故車でも1000万円で売れるぞ?[/su_box]
おわりに
厳しさと理想
厳しさというのは他人に強いるためにあるものではありません
他人を自分の都合のままに操るためではなく、自分自身を高めるために自らの意志に基づいて自らの手で課していくものです。
罵声と暴力まであらかじめ用意してやる必要はありません。
自ら災禍や失敗を招き、解決のために悪戦苦闘して自分のケツを最後まで拭きあげることで得られる学びに勝てる事前準備はありません。
ぼくら人間はどうあがいても失敗以上の教師にはなれません。
人を立派に育てるためにぼくらは人外でないとできないようなことをしなくてもよく、ヒトの身でできることをやっていけばいい。
人には出来ることと出来ないこともあることを姿や態度で示すというのもまた教育なのです。
教条主義への盲従や常識のごり押しでは中途半端にしか伝わらないのです。
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