新幹線無差別殺人は正義感の暴走ゆえ当たり前のように起こった、としたら?
正義の味方になんか死んでもならねぇ合理主義者、重オタクリア充のとも提督です。
東京-京都間は新幹線とかでいくより自家用車でロマンあふれる非日常の景色を目に刻みながら走りたい派なので新幹線とはほぼ無縁なのですが、その新幹線に殺人鬼が出没したニュースは記憶に新しいですね。
座間の殺人事件とはまた別種の、どちらかと言えばインセル(北米)による無差別轢殺や銃乱射に近いものを感じるサイコキラーなのではないかとぼくは見ています。
そう考察する理由を母親のコメントと正義というものの本質や暗黒面という面について語りながら述べていきましょう。
[outline] [su_box title=”あわせてよみたい” style=”soft” box_color=”#00a3af”] [/su_box]無差別殺人と正義感
正義は人を守る理由ではなく不正ごと他人や社会を憎む理由
水戸黄門や暴れん坊将軍、昭和ライダーの世界観なら、正義はきっとどこまでも正当に使われたでしょう。
だが、現実というのは面白すぎるほど、正義というものは無闇に他人を傷つけるしか役に立たない暴力装置以外の何物にもなれないほど、吐いて捨てるくらい理不尽が転がりすぎています。
よく規制のやり玉に上げられるエログロのキツいエロゲや暴力系のゲームや漫画より、正義感に呑まれることの方がぼくにはよほど危険に見えます。
非モテが女やパンピーを殺せば英雄視される「インセル」というコミュニティーが北米大陸にはすでに形成されていますし、彼らに取って自分を不遇に陥れたリア充や女は怨敵で、打撃を与えれば正義を為したことになる、というのも文句のつけようもない事実。
自分を不幸に追いやった敵を殺すことは悪ではなく正義になるとしたら正義感が強ければ強いほど、無差別殺人といった凶悪な殺人に手を染めやすくなる、とは考えられないでしょうか?
正義感の強いネトウヨに引きずり込まれかけた経験
発狂、精神疾患、ダブスタになっても食い下がる妄執に対して覚えた気持ち悪さをぼくは忘れないだろう
付き合いを断って久しい旧友の一部に、過激なネトウヨがいたことを覚えています。
彼らは男女ともに激しいネトウヨで、見たところで何も現実が変わらないのに政治系(保守系)の生放送を見るよう強く促されたりもしたことがあります。
ぼくとしてはそれまで続けていた提督業に集中して作業イプを楽しみたかったのに。
そう言っても「現実を知らねば」と聞く耳を持たずだった。
リアルで会って遊んでたときも中国語やハングルが聞こえるたびに舌打ちをしたりしたのに違和感を禁じえなかった。
ぼくの頭の中がシンプルすぎて気持ち悪いのかもしれないけど、「嫌いなら意識しなきゃいいのに」と内心思ったものです。
もちろん、そう提案したこともあったけどやはり「あのような害悪言語は耳が腐る、一刻も早く追い出さねば」と返すばかりで耳を貸すことはなかった。
正義感をかなぐり捨てて合理主義に傾倒したぼくも気持ち悪いのかもしれませんが、強烈な違和感に関しては男を相手にしようと女を相手にしようと、正義感の強すぎるネトウヨというものは解せず、「気持ち悪い」って感情はその無情も含め、ぬぐえませんでした。
時々、ネトウヨらと反対勢力民がTwitter上でネットバトルを繰り広げる様子を見ることはありますが、互いに正義感を振りかざすばかりで建設性のけの字もない光景に閉口するものです。
あのまま付き合いを続けてたら、ぼくは積み重ね過ぎた諦めという大量のゴミ山に埋もれてゴミのようなネトウヨになり下がって彼らの正義を振り回すだけのごみになり下がっていた可能性はぼくにも否定できる自信はないですね。
[su_box title=”まとめ” style=”soft” box_color=”#000080″] 正義感はカルト教団のように見境なく正義にそぐわぬものを正義に従うよう強制する。そのためなら人殺しすら躊躇しない個体が出ても不思議ではない。
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非モテや無職と正義感が結合すると起こる当然の化学反応
新幹線無差別殺人は起こるべくして起こった
自分の置かれた悲惨な目の前の現実。
これを誰かに責任転嫁することでそのような悲惨な現実から自由の身になれるのならそれはどれほど素晴らしいものなのだろう。
そう考える人はたくさんいるはずですが、多くは素直にその現実を受け止めて、行動するなり埋没する運命を受け入れるなり
、自分自身を密閉室に放り込んで爆破処理をしたりするでしょう。
新幹線無差別殺人の犯人もまた、幾度となくそんな理由で自分自身を処分しようとし、その恐怖に何度も跳ね返されたのでしょう。
ですが残念ながら前向きになれず、人であることを捨て、怨念と共に正義を暴走させることで人間を捨て、怨霊と同義の存在になって新幹線の車両に姿を現したのでしょう。
むしゃくしゃというカタチで正義を体現し、目の前に立ちはだかった男性を惨殺したのでしょう。
犯人の母親曰く、「正義感が強い子だから」という理由で殺人を予期できなかったのだと言います。
母親を責め、家庭環境の問題にメスを入れるのは造作もないことでしょうが、ぼくら日本人みんなが内省する機会としてこれを活用するのは難しいのではないかとぼくは思えてなりません。
ぼくら日本人はあまりに正義感というものを美化し過ぎている。
これだけはこの事件を通して日本人みんなが知っておかないと模倣犯リスクを子孫代々にまで抱えることになるでしょうね。
おわりに
正義感なんて無意味。正義感のある子供ほど注意深く見守る必要がある
正義やそれを心から信じる正義感とは暴走し、それを狂人に換えることすらある鋭利な刃物です。
確かに正義を守るために魂を燃やす正義感の強い人物というのは見ていてすがすがしいものかもしれません。
ですが、「悪を憎む」という暗黒面も含めて見ないことには正義や正義感というものを本質的にとらえているとは言い難いでしょう。
ネトウヨや女叩き厨、カルト系邪教の狂信者たちも曲がりすぎていようが正義というものを掲げてダブスタになろうがお構いなしに唾を飛ばし、殴る蹴るなどの暴行にさえ訴える。
それもまた正義や正義感の持つ顔なのだとぼくらは同じ過ちを後世に残さないためにもこの「新幹線無差別殺人事件」を通して学ばなくてはなりません。
ぼくらはあまりにキレイに加工された正義ばかりを目にし過ぎている。
もっと生でグロく、血なまぐさくてしょっぱく、発狂しそうなほど苦い正義の味も知るべきでしょう。
[su_box title=”あわせてよみたい(正義)” style=”soft” box_color=”#00a3af”] [/su_box]