芸術を語る術のない無骨な男、てーとくです。
ぼくが語っているのはオタク談義と「よく見せる装い」くらい。
アメリカンポップアートなんかの良さを語れるほどの豊かな感性はない。
そんなぼくにも表現の自由はあるわけで。
☆この記事の目的
- 表現の自由について不自由展を中心に語ろう!
- 失敗から健全な議論に必要な要素を探そう!
- 単なる炎上劇で終わらせない
芸術なんてわからないけど、表現物は美術や映像、詩歌、音楽だけじゃない。
何かを発信してるなら無視できないジャンルではありませんか?
ぼくらが芸術家などではなくても。
[outline]表現の自由とは
表現物をいかなる権力に遮られないことを保証される憲法に認められた日本国民の権利。
表現するために自由に調査を行う権利も内包されていることでも知られています。
それゆえにいろんな反作用を持つ条文と衝突をしているわけですが。
わいせつ物を芸術表現だと言えばわいせつ物陳列罪と衝突するし
知る権利はプライバシーの権利とも衝突。
悪意ある報道媒体と一般からの情報開示請求
みたいに表現の自由同士が衝突することもあります。
津田大介氏が言うように、
常に議論を重ねるべきセンシティブなテーマなのです。
その「表現の自由」を扱ったとある芸術展が今、日本を燃やしています。
政治色が強すぎる展覧会
まず、芸術系大学卒業者ではあるものの、芸術家としては知られていない津田大介氏。
津田氏が「芸術監督」という立場に就いているのに違和感がある。
彼は左翼系の著名な論客であり、
ネット社会を評論する評論家、
著名な報道マンですし。
第三者目線で見ちゃうと反日を想起する作品が多すぎてキナくさい。
仮に、出展者の反日意図は副次的なものだったとしても
津田氏というフィルターはあまりに政治的野心を感じさせすぎる。
やってることは慰安婦像を世界中に散布し、お涙頂戴を狙う「韓国的手法」そのもの。
表現の自由について議論するための燃料
と言うにはあまりに不純に見えます。
[su_box title=”まとめ” style=”glass” box_color=”#000080″] 津田氏というディレクターが意味するところをもっと考えるべきだった[/su_box]
ヘイトと芸術
ぼくは、芸術とは「感情へダイレクトに拳を打ち込む何か」だと思っています。
憤怒や憎悪だって芸術作品を作る立派な原動力。
ゆえに、ぼくは人間の普遍的感情「ヘイト(憎悪)」を否定しない。
ただ美しいだけの何か「だけが」芸術じゃない。
色欲、食欲、憎悪、傲慢、悲嘆
と言った醜い感情も形を成し、心を揺さぶり得るならそれも芸術。
ただ、作品展へのヘイトと戦うに津田氏は偏り過ぎた。
展示会の世界観もまた一方通行すぎた。
それが展覧会の空中分解という結果につながったように思えてなりません。
[su_box title=”まとめ” style=”glass” box_color=”#000080″] 韓国→日本のヘイトは歓迎し、日本→韓国のヘイトは叩き潰す
津田氏には荷が勝ちすぎる展覧会だった
[/su_box]
表現の不自由展というネーミング
【少女像展示の企画展終了】
愛知県の大村秀章知事は、県内で開かれている国際芸術祭の企画展「表現の不自由展・その後」を同日で終了すると表明しました。#慰安婦像
記事はこちら⇒https://t.co/kpmCjimR3d pic.twitter.com/hqSPNRCy0h
— 時事ドットコム(時事通信ニュース) (@jijicom) August 3, 2019
規格コンセプトや前面に公に向けて言い放った目的。
お蔵入り作品にスポットを当てるということ自体は素晴らしい。
芸術作品としてのパワーは十分だが
危険すぎて手に余るという意味でお蔵入りを強いられた作品に舞台を用意すること自体は。
ただ、反日親韓という方向だけでなく、
「純粋に扇情的すぎる」等、複数の「お蔵入り要素」が同じくらいの熱量で並んでいたなら
「左翼的すぎて」というサブタイが入っていたなら
もっと結果は違うものになっていたでしょうね。
[su_box title=”まとめ” style=”glass” box_color=”#000080″] 色々「惜しかった」せいで炎上+空中分解した[/su_box]
大衆と芸術
大衆へ晒すにはあまりに玄人向きすぎた企画設計も燃料になった。
公式サイトに載ってる16作品のうち1つが韓国系市民団体から弾圧された作品。
大衆から見れば取ってつけたようにしか見えない「反日以外」。
これも良くなかったのではないかと。
ぼくは視線誘導の為「わざと」小さく文字を書くこともある。
なので、数の少なさを逆手に「反作用の影響力を付与」しようとしたのでは?
という目測もつくけど大衆の物の見方はもっと表面的。
そういう点でも目測が外れ「想定外の事態」となったのではないかとぼくは睨んでます。
見る側について配慮が出来れば、そう思うと残念ですね。
表現の自由とヘイトと闘争
ヘイトを弾圧しようと、ヘイトが死ぬことはありません。
なぜなら、ヘイトは憎悪。
人間の普遍的な感情だから。
表現の不自由展の炎上騒動はそういった人間の限界を学ぶにはいい機会だったかと。
弾圧被害者。
守れる自由の範囲。
守り手が左翼陣営の人間ならこれらは左翼側にしかいないのだと。
表現の不自由展まとめ
- 津田氏が思い通りに扱えるテーマではなかった
- あまりに政治的意図がにおい過ぎた
- 少しの工夫で回避できた炎上劇
- 人間は同胞しか救えない
津田氏ではなく、もっと政治色がない人ならば。
(難しいけど)政治に触れるのを禁じれば。
きっと炎上することなく展示会は最終日まで走り切ったでしょう。
とはいえ、すでにテロリズムの脅迫に屈して中止され、燃え上がってしまった。
ぼくらはこれをいい反省材料にする必要があるでしょう。
次こそは「表現の自由」について主権者として議論を健全に重ねるために。
表現の自由を140文字で語ろう
表現の不自由展は空中分解してしまいました。
ですが、炎上という経緯をたどったとはいえ、考える機会としては絶好です。
- 盛り上がってるし
- テレビでは不毛な政争しか見えないし
- 津田氏の意図に乗るのは癪かもだが必要なことではあるし
ツイッターならどんな稚拙な意見や感想を述べようと自由。
ぼくを含めて著名な論者なんかじゃないのだから!
なので、読者様も「表現を自由に」してみてはいかがでしょうか?
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